目覚めれば今日も外が明るい

大海原 洋(おおうなばら ひろし)


 うららかな春の日の昼下がり。ここは都営地下鉄三田線の車内。平日の昼間ということもあって車内は比較的空いている。その中で気持ち良さそうに寝ている男が一人。彼の名前は紅林恭輔。年の頃は 20 代後半くらい。スーツを着ているせいかサラリーマンのように見えるが、それにしては膝の上の鞄がちゃちすぎる。実は彼は大学生なのである。
 その彼だが、とても気持ち良さそうに寝ている。駅に着くごとにあれだけうるさくドアのチャイムがピンポ〜ンピンポ〜ンと鳴っているのに全く起きる気配がない。

 そうこうしているうちに、電車はまた駅に到着してドアが開く。
〜神保町、神保町。都営新宿線、半蔵門線はお乗り換えです。4 番線の電車は西高島平行きです。〜
 ドアが閉まる直前、女の子が階段をかけ降りてきた。車掌が彼女を待ってくれる。その車掌に笑顔でちょっと会釈してから、彼女は電車に乗り込んだ。
 電車が VVVF 特有の派手な音を立てて走り始める。車内ではさっきの女の子が肩で息を整えている。太めの縁の眼鏡がとてもキュートな女の子だ。前に抱えている紙袋には多分、買ってきた本が入っているのだろう。彼女は紅林のサークルの後輩で、名前は明日香、羽田明日香という。

 少し落ち着いてから車両の後ろの方へ歩き出した彼女は、すぐに紅林を発見してその隣に座る。さらには、非情にも、気持ち良さそうに寝ている彼を起こしにかかる。
「紅林さん、紅林さん」
「ん……あ、すんません……あ、あれ? ああ、明日香ちゃん…おはよう」
「おはようございます。あの、もうお昼ですよ」
「ん(腕時計に目をやる)…あ、ほんとだ」
「今日はどこかへお出かけですか?」
「うん、慶應大学の友達に呼び出されてね、これから三田に行くんだ」
 まだ少し眠そうだ。
「三田ですか? でしたら、この電車だと反対方向ですね」
「え? この電車、三田行きじゃないの?」
 真面目な顔で聞く紅林。
「この電車、西高島平行きですよ」
 真面目に答える明日香。
〜この電車は西高島平行きです。次は水道橋、水道橋。JR 線をご利用の方はお乗り換えです。〜
 真面目な車内放送が、絶妙なタイミングで流れる。
「ほら」
「う〜ん、乗った時は確かに三田行きだったんだけどなぁ」
 紅林は首を傾げる。傾げながらも苦笑いしている。それを見ていた明日香が堪えきれずにクスクスと笑い出した。この状況であり得る解答は一つしかない。
「紅林さん、またやったんですか?」
「どうやらそうらしい」
「クスクス…紅林さんの特技ですものね」
「あうぅ」
 紅林の特技、それは電車の中で熟睡し、終点での折り返しでも起きず、起きた時には逆方向に電車が走っているというものだ。とんでもない特技があったものだが。

「でも、紅林さん、ここが三田線で良かったですね」
「そうだね。この路線なら終点まで行っても、たかが知れてるからね」
「そう言えば、日比谷線に乗っていたら東武動物公園まで行っちゃったって話、あれ、ホントなんですか?」
「えっ…、誰だっ、それをばらしたのはっ」
 慌てる紅林。
「誰だって……、先週飲んだ時に、紅林さんが話してくれたじゃないですか」
 じと目で見る。
「う、そう言えばそうだった」
 途端にへろへろになる紅林。
「思い出しました?」
「ああ、思い出したよ…あはははは」
「もう」
「い、いや、当分の間、日比谷線では東武の電車には乗りたくないね」
「そうですね。築地の次が終点・東武動物公園なんてことになっちゃいますからね」
「う、いぢめる…」
「これは天罰です」
「あうぅ」
 クスクスと笑う明日香。レンズの奥の瞳がどうだと言わんばかりに輝いている。そんな彼女に紅林が勝てる訳がない。そう、勝てる訳がない。

 寝過ごしに関しては、この男は他にもいろいろな伝説を持っている。神保町へ行こうとして都営浅草線に泉岳寺から乗ったら、寝ているうちに単線の行き止まり駅に到着していた(これは三崎口ね)とか、品川から京急線に乗って川崎に向かっていたら、いつの間にか千葉県に出ていた(当時の終着駅・千葉ニュータウン中央)とかのように、反対方向の終点近くで目が覚めた例を挙げればきりがない。

 電車は白山を発車したところだ。ようやく明日香が笑いを止めてくれたらしい。
「でもそんなにやっているのに、車庫で目覚めるような伝説はないのはどうしてでしょうね?」
「明日香くん、なかなか鋭い質問だね。その答えが知りたいかい?」
「はい、せんせ。明日香にはわかりません。お願いですから教えて下さい」
「『先生と呼ばれるほどのバカはなし』って言うけど、明日香ちゃんに呼ばれるのならいいかな」
「またまた〜、そんなこと言ってごまかそうとしてもダメですよ。さあ、答えを教えて下さい」
「ほ、ほんとなのにぃ。…どうしても答えを知りたい?」
「はい」
「ふむふむ…では、お答えしよう。それはね……、教えてあげないよ、じゃん♪」
「がくっ…そ、そんなのありですか?」
「だぁ〜ってそんなの、ボクが教えて欲しいくらいなんだよ」
 情けない声をあげる紅林。
 確かに、本人はただ単に寝ているだけなのだから、理由がわかるはずがない。
「もしかして、朝、寝過ごして車庫に入ってしまって、夕方出てくるまで誰にも気付かれていないんじゃないですか?」
「そんなバカな」
「いえ、紅林さんの場合、あり得ます」
 きっぱり言い切る明日香に全く反論出来ない紅林。車庫でも気づかれていないのならこんな面白い話はないのだが、実際のところ、真相は謎に包まれたままである。

 紅林と明日香がそんな楽しいお話をしているうちに、電車は明日香が降りる駅に到着したようだ。
〜次は巣鴨、巣鴨。JR 山手線をご利用の方はお乗り換えです。〜
「あ、私、ここで降ります」
「じゃ、ぼくもここで反対方向に乗り換えるか」
 二人が電車を降りると、電車はドアを閉め、北へと去って行く。
「じゃ、紅林さん、私はこれで失礼します」
「うん。気をつけて帰ってね」
 階段に向かおうとした明日香が、不意に振り返っていたずらそうに微笑んだ。
「そうだ。今度はちゃんと終点の三田で降りて下さいね」
「う、うん、そうだね。しくしく…」
「では、さようなら」
 階段を上っていく明日香。へろへろと手を振ってそれを見送る紅林。
「あ〜あ、行っちゃった…。さて早いとこヤボ用片付けて家に帰るか」
 そんなことを呟きながら、三田行きの電車を待つ紅林。しばらくしてやって来た電車にしおしおと乗り込む。

 しかし、やはりと言うか何と言うか、明日香に釘を刺されたにも関らず、彼は三田行きの電車の中でまたもや寝てしまうのである。

「あ、外が明るい…。なんで? ここはたしか地下鉄だったよな?」
〜次は西高島平、西高島平、終点です。〜
 こうして彼は今日も明日も明後日も電車で寝過ごすのであった。

〜おしまい〜


《都営地下鉄三田線》(東京都市計画高速鉄道6号線)

 三田駅から都心を通って西高島平駅まで伸びる 24 駅 22.5km の路線です。高島平や板橋などから都心方面へ向かう通勤ルートの要になっています。1999 年度には三田から清正公前まで延長され、そこから営団地下鉄南北線に乗り入れて目黒を経由し、東急目蒲線・東横線と相互直通運転を行なう予定です。
 終わりにもありましたが、三田を出て北に向かう電車は、終点近くの志村坂上を過ぎると地上に出て、終点の西高島平までは高架線を走ります。


QDATトップ過去の作品を訪ねて目覚めれば今日も外が明るいカタログ「鉄っぽい本2」
Published on 1997/08/17 / Last updated on 1998/10/31
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